更新日 : 2023年03月04日
今はむかし、南秋津と北秋津との境にある柳瀬川の崖の上には、両村の菩提寺である持明院(じみょういん)と並んで曼荼羅堂(まんだらどう)というお堂がありました。その下は曼荼羅ヶ淵という深い淵です。埼玉の久米とも境が続いているので「久米の曼荼羅ヶ淵」とも呼ばれていました。
ここは、伊草の袈裟坊(けさぼう)、笹井の竹が淵とともに「河童のすみか」といわれていました。
昔ここにいた河童は、毎年五月の過ぎ中元になると、川底を通り抜けて、曼荼羅ヶ淵で取った人間の生き肝を、豊岡の先の「笹井の竹が淵」と川越の北の「伊草の袈裟坊」へ土産として持参することになっていました。
だから、夏になってもこの淵で水泳などする子どもは、きっと河童に生き肝を抜きとられるというので、人々は恐れて川に入らなくなったため河童のほうも中元がくるのに進物ができなくて困っていました。
ある日、久米の馬子(まご)が川岸の草むらに馬をつないでおいたところ馬が悲鳴をあげるので驚いてかけつけると、十歳位の子供の頭ほどある河童が、馬の腹に食いついています。馬子は急いで馬を草むらから引き出し、持明院につれて行き、坊さんに頼んで河童にわかるように、人間の生き肝を取るような悪いことを今後してはいけないと説教してもらいました。
河童も聞いているうちになんとなくしんみりとなり、「今後この土地の人に悪いことは決してしません」という詫証文を書いて坊さんに許してもらいました。
その後、人間の生き肝を取られたという話は聞かなくなりましたが、「河童の詫証文」は長く曼荼羅堂の河童の話として伝えられました。
その当時、川の水を用水として使用していましたが、持明院の井戸は川と続いていて、井戸野つるべの桶を長くさげると川に出たというし河童が井戸に通ずるように穴をあけたのだとの伝えもあります。
河童の詫証文は、明治17年の持明院の火災と共に焼失してしまったとのことです。
「東村山の民話」より(東村山市教育委員会:昭和55年発行)
たまろくめぐり
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