更新日 : 2023年02月24日
東久留米市旧南沢地区の昔話です。
(省略)
ここはよその地区に比べまして、非常にあの、先づ水が豊富で、その水がしかもきれいで年中枯れることがないということであったと思います。今でもそうだと思いますけど。
それでまあ「食」の方ですが、今年当りはだいぶ寒くて米がどうなのかと非常に心配されているわけですけど、南沢では米を作っておったうちというのは、戸数でどの位ありましょうか。
- 田んぼだけですか。
田んぼを作っておった戸数です。
- そうそれでも30軒ぐれえかな。 (昭和30年頃まで)
- いやあのさ、ずっと古くはね (明治9年当時の南沢村全部で) 99軒でしたね。
そうしますと、米はやはりすごく貴重品だったわけですね。
- そうですね、だからやっぱり穀倉ってのがあってね。
- だから、米だけじゃなく麦を食うとかね、いろいろ昔しは、さつまいもとかね、ああいうものをね、米の代替ですね。
それでも、柳窪とか、向うよりは豊かだったわけですね。
- あの畝歩の記録は、あの村誌 (皇国地誌)の方に出てるんですけどね、あの (明治13年当時で)畑が71町3反9畝6歩ですね。
それに対して田んぼが8町2反7畝。 - ただね、田を耕作したかたはね、それだけ耕作したから全部自家用米にするってわけじゃなかったですよ。一律にね、食生活ってものは、当時はね、お米が3分の1とかさ、あと麦ですよね。3分の1入っていれば、きっと良かった方ですよ。
そうでしょうね。
- それでね、お米は全部を自家用米にしないで売ったもんですよ。
田んぼを作っておるから、その作らないうちよりも米を沢山食べられるというものじゃないんですね。
- そうじゃなかったですね。
ああなるほどそうですか。そうしますと暮しというものは大体平均していて、米を持ってるから、あの白米を沢山入れて食べるということはなかったわけですね。
- なかったと思うね。
- わたしらの子供の時はね、その何か「モノ日」 (行事がある日)があるでしょう、そいういう時は、ほれ、よそから米を買ったりしてね、お客様がくるとかね、そういう場合につかうとか、本当に大事なものだったですね。
- うちなんかじゃ米がもう足んなかったからね、売るってことはしなかったけど、その代りオカボ (陸稲) を少し作りゃね、まあ足りたね。
しかし、まあ、お正月あたりになりますと、米が幾分でもこちらは豊富だということでもって餅つきなどはキバったもんでしょうね。
- そうですね、餅つきは多かったね。
そいういう時にはキバって、
- あっしなんかが覚えてて、1石5斗、1石8斗もついてことあるよ。
- だから、田のあるかたはね、自家用米にするにしても、田のないかたはオカボでしたね。
柳窪の方もみんな同じだと思うんですがね、農家のね一般の食生活というものは、あの3分の1お米が入って食べられるってうちは少なかったと思うんですよ。ずっと昔し、おそらく久留米全域がそうだと思うんですよ、田の多いあの小山とか落合の方へ行っても。そういう時代でしたね。
そういう時代でしたでようね。
- まあ私なんか、米を食う時代が農家でもってくるとは思わなかったね。
- 実感ですね、本当に。
粟だとかさ、稗(ヒエ)なんか食べことあります?
- ありますよ。
南沢地区ではトウモロコシの有めしやったことありますか。
- トウモロコシはないねえ。
- まだ私なんかの時代はね、稗めしとか粟めしはずい分あったね。
- ありましたよ。
- あれは、炊いたばかりの時はうまいですね。ありゃヒャッこくなっちゃうと湯かけたって何したってコリコリしちゃって生みたいだ。
けむり(ユゲ) のでているうちはいいんですね。
- 朝なら朝炊くでしょう、食べているうちはいいけど、お昼になると湯かけたって何かけたって生めしみたいだから。
- 私なんかの代 (大正末年頃) でも粟めしはありましたね。粟だけじゃなくて、やはり米も入れてね、米を入れないとやっぱり食べられないね。
ヒキワリのめしってのは何年頃までつづいたでしょう。
- そうねえ、ヒキワリはずい分古いでしょうねぇ。
- 古いだろうねえ。
- ヒキワリからオシムギになってね。
- そうそうなんだいね。
- 大正11年頃ね、オシムギの機械が入ってたと思うんですね。あのゲンシチさんのところからね、私のところで水車を受けたことがあるんですよ。だからその当時からだと思いますね。
これで、まあモノ日などには、多少なりともまあうまいものを、ごちそうを作ろうということなんですけど、そういう場合には行商人が当てにして売りに来たんでしょうか。それとも買いに、
- いや売りに来ましたよ、魚屋さんとか豆腐屋さんが。
- みんなね商店に買いに行かないで、うちへこう廻って歩ってくる。
- 自転車でよく廻ってましたよ。
魚でも?ほう。
- えびす講とかね、初午とかなんかそいういう行事がある時にはね、一日か二日前にね、一日にそれこそ廻り切れない程持って来たよ。
ほうなるほど。
- それから江戸屋、古くはね江戸屋も廻って歩ってたね。
- それから、豆腐屋というと神山のカスヤさんか、あの人がよくやってたですよ。
魚屋が持ってくるのはどんな魚ですか。イワシだとかメザシだとかの塩物?
- いや生ものも.........。
生ものもありましたか。
- ええ持って来ました。あのね鰹(カツオ)とか鮪(マグロ)とか、あの氷入れてね、だからねこう通った後水がたれているんだからね。
なるほど。
- だけど主に塩モノが多かったじゃないですか。
まあ、鱒(マス)とか、塩鮭(シオジャケ)とか。
- それが鱒や塩鮭はだいたいが、なんでしょう、あの、あれは越後の方から女の人がテンビン(天秤)で担いで歩ってね、わかめとか鱒売りに来たね。
ほうなるほど、そうですか。
- 女の人ですよ、みんな。
普段でも?
- ええ普段でも。
ところで、そのまあ、食いものはだいたいどこでもあまり変わっていなかったということですけれども、住いと着るものですが、田んぼの耕作と畑の耕作では着るものも違ってくると思うのですけども、この辺はどうなんでしょうか。
- 同じだったでしょう。
- こっちじゃ、あの畑行くときには野良着っていう、あれでしょう。ただね、田んぼに入るのに私なんか経験ないけどもね、見てるとね、モモシキ(股引)だったですよ。あの当時はねズボンなんてないですから、かまわずクビッてね、2か所を。それで田んぼに入っていました。
男はそれでいいですけれど、女の人は、
- 女だって、モモシキはいていたね、男と同じモモシキを。
そうですか、でも畑の方では女の人はモモシキあんまり使わない、
- いや使いましたよ。
- モンペが流行る前にはね、やっぱりモモシキだったですよ。
- そうモンペはあの、あれはそうだね、戦争中からだね。
私、記憶に残っていますのはね、うちの方(柳窪)じゃカイコ沢山やってましたからね、カイコつむのに女性がね、普通の着物なんですよ。
- モモシキはかないでふつうの着物で?
- でも、だいたいモモシキはいていましたね。
- そんで野良仕事やったんじゃねぇ、あの頃はブヨ(蚋)が多かったからね、モモシキはかないんじゃ仕事できないですよ。
そうですね、足が真赤になっちゃいますね。
- モモシキはいたって、一寸短いんじゃ足袋とモモシキの間真赤にくわれちゃうからね。
- それから、雨なんか降るとショイタを使いましたね。
- ああそうそう。
- カマス(叺)にヒモを通してね。
- ショイタって言ったんですよね。
ミノ(蓑)なんてのは、その前がミノですかね。
- あれは、よそゆきじゃなかった?旅なんかするときで仕事するときはやっぱりショイタだったね。
よく、あの鉄道工夫やなんかね、線路工夫がミノ着てやっていたね、わたし等子供の時分にね。
- 農家では、ミノは高かったから買えなかったですよ。
- ええそれで自分でね、まあミノの代りに作ってね。
- ミノは高いんですよ、とにかく。
そうですか。
- あの頃は全て廃物をずい分使ったみたいですね。だって風呂敷なんかメリケン袋壊して使ったでしょう。
そうでしたね。
- 夏のシャツなんかもメリケン袋で、縫ったりしてね。
- 女の人の腰巻きなどもメリケン袋で。
- あゝそうそう(笑い)
そうですね、廃物利用ですね。
- まあ、今考えてみるとね、どうしてああいう生活を、まっと(もっと)気のきいた生活が出来なかったかと思いますね。
野良着などはどこから買って。
- やっぱり呉服屋が売りに来ましたよ。だいたい、男の人はねメクラ縞っていって木綿で織ったものでしたね。
- 印半天(シルシバンテン)とかね、それからメクラ縞の着物でね、女はだいたいカスリ縞だったな。
どこから売りにきましたか。
- やっぱり所沢とか田無とかね。
- 自分のうちでは、年寄りがよく面倒してね、木綿でね糸なんか買ってわざわざあれ織ってましたよ。
いつ頃までですか。自分のうちでやったのは、織ったのは。
- 機ですか。
ええ、機(ハタ)
- うちあたりは、おふくろのやっているのちょいちょい見受けましたがね。
- 嫁に行く娘にもたせてやるためにね。
それいつ頃までだったでしょうかね。
- おいらが知ってんだから大正の初期あたりだろうね。
- 昭和になってもやってたかもしれないな。
えっ、昭和になっても?
- そうね、新家のばあさんなんか昭和になってからもやってたよ。なにしろ戦争が始まってね、ガンと変ったんですよね。
賃機(チンバタ)織ったうちはありましたか。
- ええありましたね、南沢でも一部でやってましたね。あと前沢神明山とかね、むこう行くに従って賃機多かったですよ。で、神山、門前の方へ行くと少なかったでしょうね。
いえうちの方(落合)もやってましたよ、あゝいうの。
- 機元(ハタモト)はね、西の方に行くにつれて機元が増えたわけなんだよ。
- 東村山よりまだ大和という風にね。
その頃の家は、だいたいカヤブキ(茅葺き)だったと思いますけどカヤもかぎられていたでしょうし、カヤが沢山あるうちはあると、そうでないうちもあるということなんで、そういう場合にはやはりどういう風にカヤを。
- なにしろ、その当時はね、さっきお話ししたように貧富の差が強かったもんですから、まあ山林を持っている方は少ないわけですよね。南沢あたりは少ないですよ。カヤはね、皆持っているうちから譲り受けて、それから。
- 買いましたですね。
- それにまあ麦をね、麦ワラをあれをまぜてやったからカヤばっかりじゃなくね。
- カヤは一部ですね。
カヤを沢山入れた屋根は高級な屋根ということになりますね、持ちもいいということで。
- 南沢では屋根屋というのが笠松のワキのうちのあれ何て言ったかな。
- コオジヤか?
そうコオジヤだ、あの人だけでその他には屋根屋さんてのはいなかったですか。
- いましたよ。
- だいぶいたよ。
- そこの多聞寺の脇、寺脇にもいましたね。
屋根替の時期は、お正月前ですか、お正月後かしりませんけども、だいたいいつ頃。
- あれは寒くならなけりゃあやらなかったですね。
- そうだね。
では農閑期に?
- そうそうやるわけです。
- それにあれは寒いときじゃないと屋根が持たないですからね。
大正12年に地震(関東大震災)があったわけですけどね、かれこれの大きい地震でしたが、あれで多少家が傾いたとかひっくりかえってしまったとか、そういうことはなかったでしょうか。
- 聞かなかったね、そういうことは。
ああそうですか。
- 多少歪んだのはあったかも知れないけど、もともと農家っていうのはもう代々のもんだから、多少の歪みは地震がなくたってあったんだからね。(笑い)
- よくね、もう弱っている、まあ悪くなっているあれ(屋根)からは抜けたんですよ、麦カラがね。
とびでちゃうわけですか。
- あれは古くなるとね、縄がモロくなっちゃうんですね。
中でしばっているあれが腐っちゃうわけですね。
- 竹を入れてしばってあるでしょう、あれが切れちゃっているとねそうすると上からチラチラ落ちちゃう。
- とに角あの屋根替えはもう真黒になりましてね、本当に煙突から出て来たみたいに真黒になって、だからあれ(手伝ってくれる村の人たち)に風呂つかわしましてね、して一杯飲ませて帰って貰ったわけですよね。
昭和51年8月28日 (土曜日) 多聞寺にて
出典: 久留米の昔話を聞く合本復刻版(編集・発行: 東久留米市教育委員会)
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