更新日 : 2023年02月24日
東久留米市旧柳窪地区の昔話です。
(省略) 結婚してからの生活についてお伺いしたいのですが、家計の切りまわしいわゆる財布はどなたが持っていたんでしょうか。
- まあ、家によっては親が80才になっても未だ自分で持っている場合もありますね。でも嫁を貰ったからすぐ息子に譲ってしまうってことはまあないですね。
(省略)お宅では、いくつの時に渡されましたか。
- オレ?オレなんか渡されたってろくに財産もなかったけど54、5才の時だったですね。
では、(省略) ご両親が長生きなさったんですね。
- いえ、母親が早く亡くなっちゃったから、早く渡してよこしちゃったですね。
えっ54、5才でも早いんですか?
- 早い方ですね。
- 身上渡されたって楽なことはないですよ。
今の人みたいに気楽に使えるものではなかったですからね。昔しはお金がないだからね、とれないだから。家のお父さんなんか東京へ仕事に自転車で行ってきて日当が1円80銭ですよ。植木屋の手間賃が。 - 昔は嫁だってオラだって、親がしっかりしていたからとてもじゃないけど大変だったよ。
そうしますと、お嫁さんはかなり気を遣っていたわけですね。
- そりゃあ使いましたよ。今の人間じゃとてもつとまらないですね。
- 私のところは養子だけど、母親が19才の時に亡くなって、自分の娘だし早く身上渡せば一生懸命やるだろうってことで渡して寄こしたと思いますけど、父親が「今日からおまえが財布をしまうだけど、お金は使うじゃないよ」と言って渡された財布の中に80円はいっていました。
80円ですよ。そのかわり肥料なんかは買うっても代金は麦がとれてからでもいいとかなってましたから何とかなりましたけどね。お金は使うじゃないよと言われた言葉は、今でも忘れませんね。
そうしますと、自分の娘や息子が結婚する場合などの采配はどなたが。例えば嫁入り道具などは。
- 私は上の娘を三鷹へ嫁入りさせましたけどね、嫁入りの一切の仕度をおじいちゃんおばあちゃんが買いに行きましたよ。
私は自分の娘の嫁入り道具を自分で買ってやることができませんでしたね。だって、お金を持たせて貰えなかったから。
しかし、こういう仕度をしてやって下さいということは頼めたんでしょう。
それともおじいちゃんおばあちゃんから何か相談でもあるんですか。
- 頼めませんし、又相談も勿論なかったですね。
- 平均、昔はそうだったけどな。
しかし、苦労をして育てた娘の嫁入り仕度は、母親の楽しみの一つのように思いますが。
- まわりもそうだったから我慢出来たんだと思いますね。自分のところだけじゃないからね。でも情けなかったですね。
- それが当り前だったからね。
三鷹へお嫁にやったのはいつ頃のことですか。
- 戦争前でしたね。
では、ほんの未だ30年位前の話ですね。
- そうですよ。孫がいま大学生ですから。
- 昔の嫁さんは本当に大変だったですね。しゅうと、しゅうとめに気兼ねして、小じゅうとがうようよしてればたまったもんじゃないですよ。
- アッハッハッハー (全員)。
では、普段無駄づかいをするためでなく、身のまわりの必需品を買うときはどうなさったんですか。
- 1年のうち、何回か実家へ泊りがけで帰るんですが、その時に小遣いを貰う程度でね、何も買うどころじゃないですよ。
そうですか。朝は何時頃起きたんですか。
- 日が短くなって来ると、さつま掘りしてその後麦を蒔くでしょう、だからそんな時は朝4時起きで5時には畑へ行きますよ。
夜は夜で、継ぎものしたり休む暇なんかありませんでしたね。 - やっぱり、つらくなかったって言えば嘘になると思うけど、どこの嫁さんもそういうふうだったからね。つらいだなんてことは口が裂けても言えなかったですね。
- 当時はそれが当然でしたからね。
- 教育がそうだったしね、今のような民主的な教育じゃなかったからね。
- 学校の教育もそうだったけど親もそうでしたからね。嫁入りした以上はそこが死に場所だから、どんなつらいことがあっても辛抱しろって言われてましたからね。
では、お嫁さんが婿さんに愚痴るなんてことはなかったですか。
- うち当りではしませんでしたね。
- どこでも余り言わなかったでしょうね。仕込みというか鍛え方が今とちがいますから。でも、たまに親の所へ帰ったときに親には愚痴をいったかも知れませんね。
- 今とまるで逆だからね。今は嫁さんがゆうゆうとしていて親の方が小っちゃくなっているけど、昔は嫁さんが小っちゃくなってたんですよ。
- それにね、私らみたいに生えぬきのものはいいですけどね、よそから嫁いだ人は特に気を遣ってましたね。
昔、未だガスなんかない頃はご飯を炊くにも木を燃していたでしょう、だから台風のあとなんか道路にけやきの枯っぽがおちてんですよ。勿体ないから私なんか平気で拾って来るんですけど、よそから嫁いだ人は生えぬきの人はいいって、わしらみたいによそから嫁いだもんはそんなもの拾って来れば、あの嫁は欲が深いなんて言われちゃうと言っていましたけど、それだけ世間にも気兼ねをしてたんですよね。 - 私は養子に来てもらったから親に仕える苦労は知りませんけど、私は運が悪くて7人の子供を残されて主人に戦死されてしまいましたから、他の人とは違った苦労をしています。
それはおいくつの時ですか。
- 私が40才で主人が42才の時でした。
主人が出征してから一番下の子が出来ているのがわかったんです。生れたら電報を寄こせと言われましてね電報を打ちました。3日目に休暇を貰って顔を見に帰って呉れました。そして翌日部隊へ帰ってもうそれっきりです。
その時一番上のお子さんはいくつだったんですか。
- 小学校6年でした。
では、おじいちゃんがお父さん替りで。
- そうです。
ひとっきりは朝6人学校へ行っていましたから、朝は戦争のようでしたよ。
昔は今のようななり(服装)もしていかないしね。写真を見ると洋服の子も少しはいるけど、まだ当時は絣の着物を着ているですよね。洋服ならかえって楽ですけどね。
大変な思いをしたよね。二人の子供を乳母車へ乗せて脇へ置いといて、お茶摘みもしました。
子供を育てるのは本当に大変だったけど、そんなにがっかりしちゃあいられないからね。私だけじゃないからね。
1人しかいない倅さんを戦争で亡くしちゃった人もあっていろいろだったからね。
今、遺族年金を貰っていますけど、少し位いの小遣いを貰うより生きていた方がいいやなって言われるけど、しょうがないですよね。病気で死んだんじゃ小遣いも貰ってくれないからね。そう思ってあきらめてるんですよ。
ありがとうございました。(省略)
昭和52年5月21日 (土曜日) 長福寺にて
出典: 久留米の昔話を聞く合本復刻版 (編集・発行: 東久留米市教育委員会)
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