更新日 : 2023年02月24日
東久留米市旧柳窪新田地区の昔話です。
私は柳窪なんですが、柳窪新田というと、小さい時から特別親しみがありましたんですが、柳窪新田のイメージって言いますと、地理的関係からか電気がはいったのがすごくおそくてね、ランプ新田だなんて声もきかれた程ですが。
- ここが一番おそかったですね。それにしてもずい分ひでえこと言ったんだな。
- ワッハッハッハー (全員)
- それにしても一つの村が昭和19年まで、ランプでいたんだからね。久留米でも早いところは大正12年頃はいっていたんだからね。
- 順調にいけばもっと早くはいったんだよ。
ところがね、電柱を畑の中に通させないとか、境いに電柱をいけるならいいとか、それに電気をいれると家が大きいから三ツぐらい電燈をつけさせられて、1ヶ月70銭ぐらい電気代がかかっちゃうとかね。
当時は石油一缶が2円50銭で買えたからね。ランプなら1つで足りるってことで計算したり、いろんなことで、ずれちゃった面もあるんだね。
だから東電では、うるさいことを言うんなら引かねえっていうむきもあったんだね。
はあそういう障害だったんですか。
- そのかわり、昭和19年に電気が引かれてからは、電気の方で一番文化になったんですよ。
ほうそれはどういうことですか。
- あの作物の苗床にね、電熱を利用したんですよ。これは久留米では一番最初だったんですよ。
ほうそうですか。電熱を利用すると、やっぱり短時間で出来るんでしょうね。
- そうです。
- で、うちで電熱利用をはじめたら、よその部落でも利用しはじめたみたいだったね。
それはいつ頃までやっていたんでしょうか。
- そうね、電気が入ってから10年位はやっていたからね。だけどおもったよりパットしなくて自然よしちゃったんだね。
そうですか。でも電気が入ったのは一番遅くても、直ぐその利用について着手するという、この進歩的な考え方は、新田の人の開拓精神を如実に現わしているような気がしますね。
昭和52年11月26日 (土曜日) 第6消防団詰所にて
出典: 久留米の昔話を聞く合本復刻版 (編集・発行: 東久留米市教育委員会)
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