更新日 : 2023年02月24日
東久留米市旧神山地区の昔話です。
上の原団地造成前
昭和15年頃、当時の村長が貫井豊太郎さんのとき、軍の方から「実は神山、堂坂、上の原、中山を約20町歩、海軍用地として使用させていただきたい」ということで、まあ20町歩というと耕作者が53名ほど、航空管制本部がある1町2、3反の敷地などは、全面的に農家を放棄しなくちゃなんないということで、
また当時の耕作者っていうか農家所帯数にしたら20町歩というと、小さい農家だから死活問題になるということで、その面について応じられない点が多々あるとしたんだけれど、
軍の方もひじょうに意見が強くて、国家総動員法を適用しても使用を急ぐんだから使わせてもらいたいというような、
そこで急きょ52、3軒の耕作者と軍とで条件を出し合い、
というのは1町2、3反は出入りは禁止するが、あとのあいたところは、要するに通信部なんだから木骨の柱、アンテナ線をはるだけだから、耕作はさせるからという条件で、やむなく1町2、3反、52、3名の組合員はこれに応じて、(昭和)17年、海軍交通管制本部というものに変わった。
(当時は新座の片山、石神、大和田、西堀、合わせて52、3名の耕作者が耕地組合を作っていた。)
それで通信所長として海軍大佐田中さん、西田さん、それでそこに勤める方が22名、22棟の住宅をかまえ、通信をやったわけなんです。
それでそのうち昭和20年8月15日終戦になったわけです。
軍隊は解散するときに合わせて、地元耕地区組合という組合員52、3名は、軍が解散したんだから同時に解散させてもらいたいと解放運動を起こした。
そうこうしているうちに昭和23年11月1日農地法の小作農特別措置法という法律が施行されました。
それにのっとって地元代議士先生、地元議員さん、まだその時分は村会議員だね、農業委員の方とも合わせて耕地組合解散運動を行なったんだが、たまたま関東財務局支所の立川へ行って局長と面談して話し合ってみたところが、すでにそのときには海軍側は外務省に移管して耕作農地でなくして、外務省の国有財産であるからということで払いさげを拒まれた。
それでたまたま36年頃に保証生産して、日本住宅公団に保証してもらって、そこで、あそこの耕作を放棄した。
上の原団地造成以前の概略的な様子です。
どうもありがとうございました。
(省略) ときにその当時畑と山林の割合はどのくらいでしたかね?
だいたい山林40パーセント、畑60パーセントぐらい。
これも戦争へ行って命をささげて戦っているんだからというこ
とで、一応海軍側にまかせようと、そうしなければ向うは国家総動員法でどうしてもそういったものをかけなきゃならんと。
軍が直接そういうことをやったわけだね?
そうですね。 (省略)
昭和50年9月6日 (土曜日)神山氷川神社にて
出典: 久留米の昔話を聞く合本復刻版 (編集・発行: 東久留米市教育委員会)
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